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劇場に行くためにどこでもドアが欲しいミュージカルオタクの観劇記録と観るためのあれこれ

【観劇レポ】ミュージカル『スモーク』(SMOKE) @ Asakusa Kyugeki, Tokyo《2018.10.27ソワレ》

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 期待以上だった韓国ミュージカル『スモーク』(SMOKE, 스모크)の日本語翻訳公演。観劇直後のふわふわとした高揚感に頭がぼーっとしているまま、その日のうちに初回観劇と全く同じキャストでのリピーターチケットを購入したものの、「やっぱりもう片方のキャストの方でも観たいよなぁ」と思いが脳裏を離れず、『スモーク』日本初演の千秋楽前日に再び浅草九劇を訪れて、鏡と煙のイサン(李箱)の詩の世界を堪能してきました。私が観劇した10月27日ソワレのキャストのみなさまは下記の通り。

 超(チョ):木暮真一郎さん
 海(ヘ)大山真志さん
 紅(ホン)高垣彩陽さん

 ピアニスト:河谷萌奈美さん

 初回の観劇レポはこちら。作品の概要やあらすじ、ミュージカルの物語の元になった詩人イサンとその作品についてもご紹介していますので、興味がある方はご参照ください。

 今回は『スモーク』の演出に関する感想と、キャストの組み合わせの違いによって感じた印象の違いを中心にレポを書いてみたいと思います。(今回のレポートは前回とは変わって、最初からネタバレ全開になっているのでご注意ください。)

鏡合わせの貴方と私

 ミュージカル『スモーク』の中で、その情緒的な音楽と同じくらい好きなのが登場人物たちが鏡像のように向かい合って反転した動きをする振付。「最後のチケット Part1」(마지막 티켓 Part1) で《超》と《海》が向き合って口元に人差し指をあてがうさりげない仕草から、「可愛い人、可愛い貴方」(어여쁜 사람, 어여쁜 당신) の《海》と《紅》の机に向き合ってのダンス、《超》と《紅》がそれぞれが思う「戦う人」を激しく言い争う「戦い」(싸움) 、物語の転機となる、《超》が《海》に対してその正体を明かす「煙のように リプライズ」(연기처럼 Reprise)から《紅》が何者であるかが明らかになり、《海》が記憶を取り戻す「だけど私は君を」(그래도 난 널) までの怒涛の流れ。これ以外にも、おそらく私が気づいていない部分も含めて、『スモーク』には本当にたくさんの鏡を連想させる振付が盛り込まれています。単純に振付の動きの美しさにも惹かれますし、これは歌い方や歌詞にも同じことが言えますが、完全にシンクロして登場人物が動く部分と一拍ずれて動く部分に込められた意味を考えてみるのも面白いです。

 鏡に映った自身のように登場人物たちが動く振付は韓国版からあった演出で、前述の通りこの演出がとても好きだった私はこれが日本版でも忠実に再現されていたのがとてもうれしかったです。浅草九劇の四方を客席を囲む舞台セットでは、中心に机のセットが配置されていて、鏡像の振付もこの机を中心に舞台の対角線を描くように演じられていて、閉じられた心象風景の世界のイメージがより際立っていたように感じます。登場人物が机のどちら側にいるのかによって鏡の中と外の世界はどっち側なのかと想像を巡らせるのも楽しいです。

並行世界の超、海、紅たち

 前回の観劇レポでもクドイくらい書いた通り『スモーク』の醍醐味で大きな魅力の一つは三人の登場人物を演じる役者さんが変わり、その組み合わせが変わればその組み合わせ分の『スモーク』の物語になること。これは『スモーク』の登場人物である《超》、《海》、《紅》の三者が全員同じ人物の異なる側面を体現しているからに他ならないと思います。三人の関係性、それぞれが抱えている感情とそれの表現、その組み合わせが異なる「天才になりたかった芸術家」の姿を映しだすのです。

 『スモーク』の日本初演は《海》役が大山さんのワンキャストですが、《海》と相対する《超》と《紅》のキャストが変われば、彼らとの関係性の違いによって大山さんが演じる《海》の見え方も変わってきます。多少中二病っぽい表現ではありますが、組み合わせが変わることによって表情を変える『スモーク』の物語は、さながら向かい合う鏡の中に無限に存在する並行世界の物語のようです。

 劇中の台詞にある通り、《超》は《海》が鏡の中の自分の姿に見出した「すべてを超越した」存在としての自身。前回の『スモーク』観劇レポでも書いた通り、日野さんが演じる《超》は《紅》の前では弱さを見せる部分はあるものの、《海》の前では彼の理想とする超然とした芸術家の姿のイメージが強かったのに対し、木暮さんの《超》は溢れる苦悩や苛立ちを直接《海》と《紅》にぶつける様子が印象的で、《海》が《超》に押し付けた理想を実現するための葛藤と挫折に苦しむ芸術家としての印象が強い《超》でした。「もう限界なんだ」と苦渋に満ちた表情で心情を吐露する木暮さんの《超》は、物語の後半で焦燥感を露にする大山さんが演じる《海》の姿とシンクロしているように感じ、この二人の組み合わせは《超》と《海》は同一の存在だということが強調されて感じられました。

 《超》と《海》の二人を時には温かく、時には苛烈に奮い立たせようとする姿が母なる海の潮流を連想させる池田さんの《紅》に対して、《紅》は《海》に捨てられて、《超》との接点も絶たれたことに対する深い悲しみを強く感じる高垣さんの《紅》。鏡合わせの《超》と《海》を包み込む存在としての池田さん《紅》に対して、高垣さんの《紅》は本来は《海》と《超》の一部だったのにそこから切り離されてしまった存在としての悲哀が印象に残る《紅》でした。日野さんの《超》と池田さんの《紅》がお互いに過去に交流のあった既知の仲であると感じるのに対し、木暮さんの《超》と高垣さんの《紅》は《海》を通してお互いの存在を認知しつつも、実際に二人が言葉を交わすのが《紅》の誘拐劇の後なのでは、と感じたりもしました。これは日野さんの《超》が《紅》の前でだけその弱さを見せるのが印象的だったのに対して、《海》に対するのと同じように《紅》にも苦悩をぶつける木暮さんの《超》が高垣さんの《紅》に対し、「君はその方法を知っているのか」と苦しみから脱する方法を縋るように聞く姿が強く印象に残っていたからかもしれません。

 これだけ印象が異なると、観ることが叶わなかった日野さんの《超》と高垣さんの《紅》、木暮さんの《超》と池田さんの《紅》の組み合わせがどうであったかも気になってしまいます。(レポを書いてくださる方募集中です!)そして『スモーク』の再演が実現した暁には、今回シングルキャストだった《海》についてもマルチキャスティングされることを期待してしまいます。しかし、あれだけハードな《海》役をシングルキャストで務めた大山さんは本当に凄いです。そして私、大山さんに懺悔しないといけないことが…。その堂々たる演技と風格でてっきり三十路の俳優さんだと思い込んでいたのですが、まだ29歳の平成生まれの俳優さんだったとは…。前回のレポで思いっきり「ベテラン俳優」とか書いてしまいましたが、(俳優歴はかなり長い方なのでベテランということ自体は間違っていないのかもですが)、それだけの演技と歌が素晴らしく感じたからそう思ったということでどうか許してやってください...。(←)

「飛ぼう」

 こんな素敵な形で大好きな『スモーク』を日本に持ってきてくれた製作陣およびキャストのみなさまには感謝が尽きないのですが、さらに欲を言うと期待したいのは全役に対してマルチキャスティングした再演と地方都市での公演。色んなタイプの《超》、《海》、《紅》が観たい。手を伸ばせば俳優さんに触れられそうな距離感で繰り広げられる、素晴らしい音楽と濃密な演技で綴られる夢を実現したかった一人の人間の葛藤と希望を物語が羽ばたき、たくさんの人に届くことを願って止みません。