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【観劇レポ】演劇『hana -1970、コザが燃えた日-』@ Tokyo Metropolitan Theatre, Tokyo《2022.1.16マチネ》

演劇『hana - 1970、コザが燃えた日-』@ Tokyo Metropolitan Theatre, Tokyo《2022.1.16マチネ》

 国内でもっとストレートプレイも観たいなと思いながらあまりに実行できずにいた2021年。何気なくホリプロステージのサイトを眺めていたところ、栗山民也さん演出、松山ケンイチさん、余貴美子さんら出演の返還から50年の節目の年に上演される沖縄を舞台とした血の繋がらない家族の物語として紹介されていた『hana -1970、コザが燃えた日-』。新しい作品なので封切りされないとわからない部分がある一種の賭けではありましたが、「なんか面白そう」という直感だけを頼りに気軽な気持ちでポチッとチケットを購入。結果、いい意味で完全に打ちのめされてほうぼうの体で劇場を後にしましたが、直感だけで観劇を決めて本当に良かったと思える作品でした。そんな本作に出演されていたキャストの方々は

 ハルオ松山ケンイチさん
 アキオ岡山天音さん
 ジラース神尾佑さん
 比嘉櫻井章喜さん
 鈴木金子岳憲さん
 ミケ:玲央バルトナーさん
 ナナコ:上原千果さん
 おかあ余貴美子さん

でした。

作品紹介

 先述の通り『hana -1970、コザが燃えた日-』は沖縄を舞台とした作品ですが、その舞台となる時代は1970年、沖縄が日本に返還される前のアメリカ統治下にあった時代。アメリカでもない日本でもない当時の沖縄に住む人々の抑圧された気持ちが一気に爆発した事件として記録に残る「コザ騒動」の日に、血の繋がらない家族である祝1家と彼らの「家」でもある「hana」に居合わせた人々の様子を描いた作品です。演出は数々の演劇賞の受賞歴があり、沖縄とは長く誼を結んできた栗山民也さん、脚本はこまつ座の『母と暮せば』などの脚本を手掛けたことで知られ、過去にも沖縄を題材とした戯曲を書かれた経験もある畑澤聖悟さん。『hana -1970、コザが燃えた日-』には祝家の次男アキオを含めて教師たちが登場しますが、畑澤さん自身も高校教師で演劇部の顧問としても活動されています。

あらすじ

 ホリプロステージのサイトより引用させていただきながら若干注釈で補足してご紹介。

1970(昭和45)年12月20日(日)深夜。コザ市2ゲート通りにある米兵相手のパウンショップ(質屋)兼バー「hana」では、看板の灯が落ちた店内で、おかあ(余貴美子)、娘のナナコ(上原千果)、おかあのヒモのジラースー(神尾佑)が三線を弾きながら歌っている。そこへ、アシバー(ヤクザ)となり家に寄り付かなくなった息子のハルオ(松山ケンイチ)が突然現れる。おかあが匿っていた米兵3を見つけ、揉めていると、バーに客4がやってくる。「毒ガス即時完全撤去を要求する県民大会」帰りの教員たちだ。その中には、息子のアキオ(岡山天音)もいた。この数年、顔を合わせることを避けていた息子たちと母親がそろった夜。ゲート通りでは歴史的な事件が起ころうとしていた。血のつながらないいびつな家族の中に横たわる、ある事実とは。


『hana -1970、コザが燃えた日-』舞台映像ダイジェスト

感想

(以下、ネタバレが含まれるためご注意ください。)

 怒り、悲しみ、絶望、興奮…。一言ではとても形容できないとても複雑な色合いの感情が、舞台が進行すると共にヒートアップしていく「コザ騒動」における人々の熱気の高まりとともに強くなっていき、それが弓矢の雨のようにグサグサとまっすぐに心に突き刺さってくる。その鋭利な感情の矢の勢いはあまりに強く、私には受け止めきれないくらいで、ただただその暴風雨のような感情の嵐に為すすべもなく翻弄されて嗚咽をこらえて泣くことしかできず。終演後のカーテコールの俳優さんたちの穏やかな表情に少しだけ安堵しつつも少しでも気を抜けば目は涙で曇り、スタンディングオベーションをしながらも舞台を直視できないくらい気持ちはグチャグチャになりました。前方列での観劇だったので規制退場の案内が最後の集団だったのにも関わらず、劇場に出る前に少し気持ちを落ち着かせるためにクールダウンの時間が必要だったくらい。エンディングでナナコ演じる上原さんが歌う「花はどこへ行った」(Where Have All the Flowers Gone?)の壺齋散人氏による訳詞バージョン。成人前の十代の少女らしいあどけなさを感じる歌声が聞こえなくなった後、暗転した劇場の闇に広がる息を呑むような静寂に、受けた衝撃から瞬時に立ち直れなかったのはきっと私だけではなかったんだろうな、と感じました。

 自分たちの尊厳を踏みにじる事件を数々起こしてきた存在でありながら、その存在によって生計が成り立っている人が多数いるという沖縄に住む人たちと駐屯米軍の複雑な関係。それは何も50年前だけではなく今現在にもずっと続いている問題なのだということは想像できます。恥ずかしながら「コザ騒動」については作品を観劇するまで全く知らず、自分の無知を思い知りましたが、きっと事前に歴史上の出来事として事件のことを知っていたとしても、この作品を観劇する前後では事件に対する心理的な距離感は全然違っただろうと思います。青い空に青い海、原色の南国の植物たちといった観光名所としての沖縄のイメージとは少し隔たりのある、どこか場末感の漂うバー「hana」。その片隅でおかあやハルオ、アキオら祝家とお店に来た教師たちのやりとりを盗み聞きしているような気分になるこの作品を観ることによって得られる疑似体験。ウェストエンドで観劇して打ちのめされた『The Jungle』ソウル大学路で観て強く印象に残った『報道指針』などの実際に起きた事件を下敷きにした演劇作品を観たときに感じたときと同様に、『hana -1970、コザが燃えた日-』には演劇の持つ力を強く感じさせられ、このような作品に日本で出会えたことにとても胸が熱くなります。

 劇中に登場する鈴木さんは「本土」から来たピュリッツァー賞を受賞することを夢見るルポライター兼カメラマンであるという設定。悪い人ではないものの、やや熱意が空回りしている空気を読めない人物として描かれる鈴木さんが遠慮を知らずにぶつける質問とそれに答えるウチナーンチュ5の人たちのやりとりは、沖縄の事情に詳しくない人たちに対するガイドとして機能し、さらにそんな事情を知らずに生きてきた私自身と沖縄の人たちの距離感を浮き彫りにします。劇中登場する沖縄に生きる人たちの中でも自分たちが置かれた状況に対する温度感は様々。登場人物がかなり絞られた作品ながら、先述の「本土」から来た鈴木さん、ベトナム戦争で受けた心の傷でフラッシュバックに苦しむ米軍の脱走兵であるミケ、教え子に沖縄から九州に行った時にパスポートに押された「帰国」のスタンプのエピソードを熱を持ちながら語りつつもまだ自分の中の気持ちが混沌としている次男のアキオ、おおらかで調子がいいようで戦争の辛い体験は決して話そうとはしない比嘉さん、故郷を基地として摂取されたことを始め、色んなものを奪われながらも笑いながら過ごし、泣きたくても泣けなくなってしまったおかあ、朴訥とした雰囲気ながらも中国で日本兵として戦争を体験しているジラースーなど様々な立場で「コザ騒動」の日に居合わせた「当事者」を描いていることにもとても印象に残りました。どのキャストの方も本当にとてもよかったです。これを一夜の出来事として描いてるのに色んな人生が凝縮されているのも見事だなぁ、と。

 血が繋がらないながらも、ある意味血を分け合った家族以上にお互いに支え合って生きてきた祝家にある日突然訪れた悲劇。その日以来家に寄り付かなくなった長男ハルオが2年ぶりにふらりと戻ってきて、一家に訪れた悲劇の日に泣けなかったことを自責するような言葉を零すおかあに向かって力強く訴えるおかあが「笑ってくれた」思い出の数々。まるで睨まれているようにすら感じる松山ケンイチさん演じるハルオの視線の強さとおかあを演じる余貴美子さんの涙のない悲鳴のような深い深い悲しみの演技に心に決定的なとどめを刺されたと思った後。

いつになったらわかるんだろう
いつになったらわかるんだろう

その歌声自体はとても無邪気なのに、いえ、無邪気だからこそその問いかけが深く心に刻まれて爪痕を残すラストは本当に圧巻でした。

東京芸術劇場プレイハウス内のフォトスポット 東京芸術劇場プレイハウス内のフォトスポット
 

 公演関係者にCOVID-19の感染が疑われる検査結果が出て、この観劇レポを書き始めた2022年1月21日の夜公演から週末にかけての公演が中止となってしまった本作。とても心震える作品だっただけに、再び舞台の幕が上がることを願ってやみません。

[2022.1.25追記]

 本日の公演から無事再開できたようです。このご時世なのでなかなか難しいかもしれませんが、観れる方で興味を惹かれてる方は無理のない範囲で是非。

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  1. 読み方は「いわい」

  2. 現在の沖縄市

  3. ミケ

  4. 比嘉、鈴木

  5. 沖縄の人たちが外から来た人と区別して自分たちを指すときに使う言葉