アンドリュー・ロイド・ウェバー卿とティム・ライス卿が半世紀も前に世に生み出した作品ながらもそのロックな内容と音楽が色褪せることがない『ジーザス・クライスト=スーパースター』(Jesus Christ Superstar, 以下JCS)。極上のハードロックとプロダクションによって異なる様々な物語の解釈と演出が楽しめるこのミュージカルは私の中で間違いなく一位二位を争う大好きな作品です。そんなJCSの物語を国内外の豪華キャストを集め、しかもオリジナルの英語歌詞で演じてくれるコンサートは私にとっては夢のような舞台。というわけで2021年版『JCS』in コンサートの観劇レポの後半部分です。コンサートのバンドメンバーのみなさまは
指揮者:大釜宏之さん
リード1:近藤淳さん/川崎敦史さん
トランペット:田中充さん/田沼慶紀さん
ホルン:栁谷信さん/幸喜いずみさん
ドラム:小野裕市さん
パーカッション:土屋吉弘さん
ベース:安東章夫さん
ギター:塚田剛さん/齋藤隆弘さん、望月清文さん
キーボード:栗山梢さん、金子浩介さん、飯田緑子さん/宮﨑誠さん
マニピュレーター:古賀敬一郎さん
でした。
1幕目の感想を曲ごとに書いている観劇レポートの前編は下記からどうぞ。
感想
(以下、ほぼネタバレしかないためご注意ください。)
The Last Supper
「Overture」と同じく不吉さを感じるベースとシンセサイザーの唸るような低音から始まり、一転して牧歌的なアコースティックギターに伴奏された使徒たちの合唱から始まる「最後の晩餐」の場面。重なる歌声の中でもひときわ明瞭に聞こえてくるテリーペテロの澄んだテノールが印象的です。「引退したら福音書を書いて後世に名を残そう」と無邪気に語り合う使徒たちの姿にはいつも暢気なものだなぁと感じるのですが、楽天的な彼らと「裏切り」を知るジーザスとユダの対比を鮮やかにするために十一人2はそのように描かれているのでしょう。
平和な晩餐の集いがジーザスの「裏切りの予言」によってあっという間に混乱の渦に飲み込まれていった後に展開されるマイケルジーザスとラミンユダの口論はとてもエキサイティング。なんせ歌唱力を戦闘力に変換したら二人ともラスボス級ですので、感情を全力でのせた歌声と歌声のガチの殴り合いです。
この場面で一番印象に残ったのは東京公演の中断明け最初の公演となった7/25の公演。"Why?"と絞り出すようにラミンユダが呻くように歌って蹲った後、使徒たちが歌を再開する前に一瞬上を仰ぎ見て、怒りを必死で抑えているような恨みがましい目で宙を睨みつけたマイケルジーザス。涙を堪えるような表情でユダに向き合った後、優しくユダを助け起こして形見分けのようにスカーフをユダに手渡すジーザス。ジーザスと視線を合わせることができず、叱られた小さな子供のように目線を下に向けたままジーザスが掛けた言葉に何回か頷いたラミンユダ。離れる前にグッとお互いを抱き寄せた二人。ラミンユダはオフマイクで去り際に"I love you"と言っていたように見えました。つらい。
Gethsemane
そんなドラマチックな場面から流れるように始まるゲッセマネの園のビッグナンバー。歌い出しの誰も自分と一緒に起きていてくれないのかと心細そうに呟くマイケルジーザスは今にも泣き出しそうで見ているこっちまでもが涙目です。
韓国では2020年のソウルでのコンサートを含めて5回マイケルさんのジーザスを観ているのですが、今回のコンサート版と韓国版でのジーザスの役作りはかなり印象が違います。どちらのプロダクションでも修道者のようなストイックさを感じることは共通しているのですが、韓国版では運命共同体であるユダさえも近づくことができない別のステージにいるように感じるのに対し、コンサート版のジーザスはユダとの関係も非常にフラットで人間味を強く感じます。マイケルさんがジーザスの役作りについて踏み込んで語っているMusical Theater Japanさんのインタビュー記事がとても興味深かったのでリンクを貼っておきます。
人間臭くはあるものの、周囲とは一線を画した朝の澄んだ空気のような清涼感を感じるコンサート版のマイケルさんジーザス。そんなジーザスが命の灯火を燃やすように神に待ち受ける運命の意義を問いかける「Gethsemane」にはただただ圧倒され、為す術もなく心を揺さぶられます。そんなマイケルジーザスを称えて、大阪公演の大千秋楽では劇中スタンディングオベーションも。
The Arrest / Peter's Denial / Pilate and Christ
ラミンユダが独り言のように呟く
They're all asleep, the fools
の短いフレーズに「なんで誰も起きて自分を止めてくれないんだ」という絶望感が滲んでいたと感じたのは私だけでしょうか?
Judas, must you betray me with a kiss?
とは歌詞にありますが、コンサートの演出ではキスするどころか遠く離れた場所に立っているジーザスとユダ。そんな演出ではありましたが、ここの字幕の「たった一つのキスで」というニュアンスの訳には若干モヤりました。ここは「よりによって親愛の気持ちを示すキスを裏切りの合図にするなんて」という感じで訳していただきたい。大阪公演で初めて二階席で観劇する前まではひたすら舞台上の演者のみなさまをガン見していたためほとんど目に入っていなかった字幕ですが、訳としては全体的にとてもわかりやすい分、解釈に幅がありそうな部分も思い切ってどちらか一方に寄せる感じになっていたので好みは分かれそうだな、という印象。
民衆の変わり身の速さを暗示しているかのような「What's the Buzz?」の主題から「The Temple」、「Hosanna」の主題へと短い時間でどんどんと移り変わる一連のシーケンス。そんな中、「The Arrest」で柿澤さんがジーザスを囃し立てる側で騒動に参加しているのは初見ではかなり衝撃的でした。民衆の中で異様に目立つ彼がシモンなのか、他の誰かとしてそこに立っているのかは明確にはわかりませんが、どちらにせよ心理的なインパクトは抜群。心理的には理解しやすいペテロの変節以上にショッキングです。
King Herod's Song
熱に浮かされたように夢に見たガリラヤの男のことを語っていた姿は幻だったのかと疑いたくなるくらいやる気のないピラト提督にバトンタッチされ、満を持してのご登場。我らが王、藤岡ヘロデの出番です。一曲のみの登場なこともあり、どちらかというと「歌は一定基準さえクリアしてたらオッケー!!」と言わんばかりのインパクト重視キャスティングの印象が強いJCSのヘロデ王。そんなイメージを根底から覆す藤岡ヘロデ王の歌唱力。べらぼうに歌が上手い人がこの曲を歌ったらこんな風に聞こえるんだと新発見をしたような気分です。この曲ってフェイクを入れる余地なんてあったんですね。もっと歌って!!!
サービス精神旺盛でエンターテイナーな王は毎回手を変え、品を変え民をおもてなししてくれます。個人的にツボだったのは東京公演再開回と大阪公演最初のソワレ。前者は間奏のタイミングで強引にカヤパとアンナスに握手しに行き、後者は無理やりカヤパの手を取って大阪の民にお手振りを強要していました。全力で戸惑う宮原カヤパ様と白けたクールな表情で藤岡ヘロデの所業を受け入れるアーロンアンナスの対比がシュール。宮原カヤパ様が完全に狙い撃ちにされていたのはリアクションが良いからですね。妙に馴れ馴れしく、ヘラヘラと軽薄な王の態度にマーケルジーザスもまるで珍獣を見るような表情でドン引きです。そんな物言わぬ「ユダヤの王」に態度を急変させた藤岡ヘロデはまるでチンピラ。(褒めてます)一曲だけだけど、毎回その一曲がとても楽しみな藤岡ヘロデ王の歌でした。
Could We Start Again, Please?
もっと歌って!シリーズ第二弾、テリーペテロとセリンダマリアのデュエットです。すでにさんざん色んな人言われていると思いますが、テリーさんをペテロにキャスティングするのは贅沢がすぎると思います。二人のデュエットは極上なんですが、あまりにも短い。本当にもっと歌ってほしい...。
この曲中、マリアとペテロは鉄パイプで組まれたセットの二階部分に立っており、ジーザスは指揮者台の下の台座部分の中にいて獄中に囚われているような演出。テリーペテロは歌い出しの直前まで師がいる方角をずっと気にしている様子でそんな演技も印象に残りました。
Judas' Death
一幕の「Damned for All Time / Blood Money」の事の顛末。ユダに「I Don't Know How to Love Him」と歌わせるの、本当にずるいなぁと思うのです。ジーザスの冷静な右腕を自認するユダは君子たれという意識は強いものの、神だの使命だのの信仰心はあまり強くない現実主義者のように感じます。そんなユダが歌う
He is not a king,
he is just the same as anyone else I know
He scares me so
は普通の男だと信じている中に感じるジーザスの特異さに得体の知れない畏怖を感じているのか、普通の男に過ぎない親友を待ち構えてるあまりに過酷な運命を憂いて怖がっているのか。ラミンユダに関してはどちらかというと後者寄りに私は感じました。
You have murdered me
という一節。天を仰いで発した“You”は神を指すのでしょうが、観客に背を向け、捕らえられたジーザスを向いて繰り返されたその言葉は果たして。貴方が思い止まってくれていたら自分は最も犯しがたい罪に塗られて自死を選ぶことはなかったのにというユダの魂の叫びなのかもしれません。彼が約束された「楽園」へ入ることを放棄する意図でそれを選んだかどうかはさておき。
ジーザスから形見分けのように手渡されたスカーフを首に巻き付け、まるでそのスカーフに包まれるかのように自決したラミンユダ。再度眩い白い光と厳かな天上の調べに労われ、憐れまれた後に漏れる息を飲むブレス。その儚い一瞬まで計算し尽くされた演出は切なく。
Trial Before Pilate (Including the 39 Lashes) 3
ヘロデに面倒事をすべて押し付けたつもりが、利子付きでピラトのもとに返ってくるこの場面。ピラトはカヤパらユダヤ教会だけではなく、掌を返して暴徒化した民衆らからも「ユダヤの王を騙った」ジーザスを処刑することを強く要求されます。最初から悪い顔しているユダヤ教会はともかく、民衆の変わり身の早さと過激さはJCSの中で一番怖さを感じる場面かもしれません。ロベールさんのピラト提督は強権を振るうことに躊躇のない冷徹な為政者としての側面と理知的でありながら罪を見出せないジーザスに対して同情せずにいられない人情味あふれる側面のバランスが絶妙。よく響くバリトンに内面を饒舌に語る演技を乗せたこのナンバーは非常にドラマチックです。
一方、民衆の心変わりを受け止める側のジーザスは「39 Lashes」のカウントと共に鞭打たれている間、静かに両目から涙を流しながら静かに静かにその場に存在しています。鞭のカウントが上がると共に一度下がった目線は再び上がり、それとともに強い意志を感じる眼差しに。それはは心無い人々の仕打ちに静かに傷ついて悲しむ一人の青年が殉教者になる覚悟を固めた瞬間にも感じ、胸はさらに締め付けられます。
Superstar
ミュージカルを知らない人であってもこの曲の一部を聞いたことがあるという人がたくさんあるであろう、タイトルナンバーと言えるビッグナンバー。俗世の理としがらみから解放されたユダがはっちゃけてジーザスの決断の意図を問いかけるこの曲。ミュージカルであればユダがソウルシスターズをバックに従えて歌い狂っている間にジーザスが自身が磔にかけられることになる十字架の木材を背負って引きずりながら痛々しい歩みを見せる聖書のゴルゴタの丘の場面が展開しているのですが、コンサート版ではジーザスは舞台上に登場せず。ちなみにジーザスが処刑された場所として知られるゴルゴタの丘ですが、ゴルゴタは頭蓋骨という意味だそうです。
ご存知の通り「Superstar」はノリノリのダンサブルなナンバーなのですが、アンサンブルのみなさま、ラミンユダが手拍子を求めて観客を煽る、煽る。大阪公演の大千秋楽では珍しい劇中スタンディング状態になっての大盛り上がりでした。手拍子にも全く音量負けしないラミンユダの声量すごい。というかこの曲でヒューヒュー言えないのは拷問です。このナンバーだけに限らないですが、歓声を我慢するの、つらい!代わりに全力で拍手するから公演後めっちゃ手が赤く腫れてたよ。この曲は演奏なしのリードパートの方も、観客の方と一緒になってノリノリで手拍子していた姿も印象的でした。
ジーザスが好きで好きでどうしようもないタイプのユダの場合、彼にどんな心境の変化があってここまでジーザスの行いを茶化してこの歌を歌えるに至ったのかはいつも疑問に思うポイントです。もう一つ気になるのは、自殺が禁忌とされる宗教において自死を選んだユダが死後登場することにどんな意味があるのか、彼がどういう立ち位置なのかということ。あれだけ想っていたジーザスを忘れてしまったように感じるユダ。忘却こそが彼が受ける罰であり使命を果たした報酬なのかもしれません。
The Crucifixion
ユダとソウルシスターズ、ソウルブラザーズに乗せられてノリノリで「Superstar」を楽しみ切った後だからこそ身につまされるジーザスの
God, forgive them
They don't know what they are doing
という言葉。新約聖書の中でも死の間際になってジーザスは「神の子」と「人の子」の間で揺れ動く様が描写されていますが、JCSのこのナンバーでは後者としての苦しみを経て、死の間際にすべてを父なる神に委ねます。規則正しくリズムを刻むパーカッションの音と対比して、キーボードをメインとした楽器の調和のとれた和声と不協和音が入れ乱れる様子はまるでジーザスの心境を代弁しているかのよう。
John Nineteen:Forty One
「John Nineteen:Forty One」とはヨハネの福音書の19章41節のこと。翻訳されたヨハネの福音書の19章41節には下記のようにあります。
At the place where Jesus was crucified, there was a garden, and in the garden a new tomb, in which no one had ever been laid.
イエスが十字架にかけられた所には、一つの園があり、そこにはまだだれも葬られたことのない新しい墓があった。
まさにジーザスがピラトに命じられて鞭打たれる「39 Lashes」の場面から始まるヨハネによる福音書の19章。41節は19章の最後から二つ目の文章です。曲のタイトルはジーザスの遺体がお墓に安置される直前を描いた新約聖書のくだりを指していますが、事切れたジーザスを見守るように人々が集まり、その集まりをジーザスが静かに高みから見下ろしている姿が20章以降に書かれているジーザスの「復活」(Resurrection4) を彷彿とさせるコンサート版の演出。穏やかながらも悲しみを湛えているように感じるマイケルジーザスの静謐な佇まい。奇しくもオープニングと同じ位置に立つジーザスが、以前は仲間と共に立っていた場所から彼らを見下ろしていることにも、色々と込められた意味を考えてしまうラストです。
Curtain Call / まとめ
大阪公演ラストでありコンサートの大千秋楽ではマイケルさん、ラミンさん、宮原さんから挨拶がありました。出演者の全員がまたとはないメンバーとともに舞台に立てる喜びに満ちあふれていて、その良いエネルギーを全身で浴びることができた観客もまた喜びにあふれている。英語に"beaming with joy"という表現がありますが、まさにそれでした。
I think Ramin can sing "Superstar" again
というマイケルさんからのサプライズのキラーパスにより急遽決まった「Superstar」のアンコール。全く予定はしていなかったようで、アンサンブルキャストのみなさまは慌てて舞台の袖へと走ってマイクを取りに行っていました。ラミンユダからスタートし、実はジーザス、ペテロ、ピラト、アンナスのアンダースタディでもあったジャランさん、ユダのアンダースタディでもあったアーロンさんや他のキャストへと渡っていたメインソロ部分のバトン。事前打ち合わせなしでそういった形で「Superstar」のカーテンコールができるのはすごく素敵で粋だなぁとヒシヒシと感じました。
東京公演の途中、公演関係者の方にCOVID-19の検査で陽性反応が出て公演がキャンセルされた時はどうなることかとヒヤヒヤしましたが、なんとか無事コンサートの大千秋楽の日が迎えられ観劇することができて本当に何よりでした。平時ですら様々なリスクが伴う公演の興行。色んな制約、困難がある中で安全に素晴らしいクオリティの公演を開催していただけたことに、関係者のみなさまにはただただ感謝の言葉をお伝えしたいです。再び「JCS in Concert」を観れる日を楽しみにしています。
[2021.11.21追記]
10月末にコンサートのダイジェスト映像動画が公開されたのでせっかくなので貼ってみました。
JESUS CHRIST SUPERSTAR in CONCERT <for J-LODlive2>
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