去る2019年8月25日にソウル大学路のコンテンツ・グラウンドにおける初演の千秋楽を迎えた李氏朝鮮時代の詩人、許蘭雪軒1を題材にした韓国創作ミュージカル『ナンソル』(난설, Nanseol) 。先月初めてこの作品を観て、すっかりその世界観に魅せられたことは前回の観劇レポ記事でも書いた通り。台詞や歌詞の内容があまり理解できていなくても心奪われた『ナンソル』ですが、とある方々の協力によってあらかたの台詞、歌詞の内容が理解できている状態で観劇した前楽と千秋楽はひとつひとつの台詞や歌詞、沈黙の演技も胸に刺さり。久しぶりにムクムクと「書きたい!」という要求が湧き上がってきており、今この記事を書いています。私が『ナンソル』を観ることができたのは全部で4回。前回レポートを書いた初回以降の観劇日時とキャストのみなさまは
- [2019.8.11 マチネ]
許楚姫(ホ・チョフィ):ハ・ヒョンジさん
李達(イ・ダル):アン・ジェヨンさん
許筠(ホ・ギュン):ペク・ギボムさん - [2019.8.25 マチネ]
許楚姫(ホ・チョフィ):チョン・インジさん
李達(イ・ダル):アン・ジェヨンさん
許筠(ホ・ギュン):ペク・ギボムさん - [2019.8.25 ソワレ]
許楚姫(ホ・チョフィ):ハ・ヒョンジさん
李達(イ・ダル):アン・ジェヨンさん
許筠(ホ・ギュン):ペク・ギボムさん
でした。
8月11日のキャストボードの曜日と時間が入れ違っているのはご愛嬌
唯一ユ・スンヒョンさんの李達だけは観れなかったのですが、今更ながらもう少し頑張って枠を確保して観ておけばよかったと後悔。アンコール公演や再演でまたスンヒョンさんがキャスティングされたら次こそは是非観たいです。
プレイガイドに掲載されていたあらすじを翻訳した内容を含む簡単な作品紹介は初回の観劇レポで書いているので、よかったらこちらもどうぞ。今回の観劇レポでは新たに理解できた部分を中心に書いていて、必ずしも物語の頭からポイントとなる部分を順序よくピックアップして感想を書いているわけではないので、作品を観ていない方には前回のレポを読んでいただいてからのほうがわかりやすいかもしれません。
(以下、ネタバレが多く含まれるためご注意ください)
台詞や歌詞の内容が理解できるようになってから思ったことのひとつは、楚姫の詩の師匠である李逹が感じていた生き辛さが思っていた以上に深刻だったということ。楚姫との初対面は兄と呼ぶことも叶わない自分の兄によって暴行を受けているところで、それを助けられた李逹。お礼にと聞かせた琴は母から習ったことと、自分の母は琴の名手であったために妓生2でありながら両班の父の目に留まり妾になることができたのだろうと言ったのを聞き、黙ってしまった楚姫に対して李達はこのように言います。
왜? 이 서자가 권하는 술은 싫소이까?
どうしました?この庶子が勧める酒は嫌ですか?아. 나란 놈은 서자도 못되고, 얼자로군.
ああ、私のような奴は庶子にもなれず、孽子3だな。어미가 양민도 못되는 이들을 얼자라 하니까.
母が良民4にも劣る人々を孽子というでしょう。
李達の門下に入りたいと言う楚姫に自分の正体を伏せておきながら、あの者は自分と同じように素性の知れぬ妓生の子だからやめておきなさいと難色を示す李達。それに対して、それが自分がその人の弟子になることに何が関係あるんだ、聞かせてくれた琴の音色のように気高い人だと思ったのになんでそんなに自分の母上と自身のことを悪く言うんだ、そんな見識の狭い人だとは思わなかった、等々と烈火のごとく怒る楚姫。楚姫のそのあまりの勢いに「そんなにその人の詩は凄いのか?」と問いかけて返ってきた食い気味の「もちろんです!」という返事に思わず声を立てて笑い出してしまった李達。その笑い声は、本心から良かれと思って楚姫にそう助言した李逹の心を長らく蝕んでいた自分の生まれに対する劣等感がほどけ、楚姫が《知音》(지음) であると真の意味で心に決めた合図のように感じました。
《知音》にはその漢字が示す通り、「音曲を理解すること」という意味もありますが、「互いによく心を知り合った友」という意味で使われる言葉です。この言葉の由来は劇中の李達と楚姫の会話の中でも言及されている『列子』中の「伯牙絶弦」の故事。琴の名人であった伯牙5は、親友の鍾子期6が亡くなると、「私の琴の音色を理解する者はもはやいない」と愛用していた琴の弦を切ってしまい、二度とその名高い琴の音を聞くことはできなかったと言われています。
伯牙は親友が亡くなった後に鍾子期のように自分を理解してくれる人が現れるという希望だけではなく琴の演奏自体を諦めてしまいますが、文字を書いて詩を広めることによってお互いの心に寄り添える《知音》を増やすことに邁進した楚姫と師匠、そしてその活動を引き継いだ許筠。彼らが前へ、前へと進んでいく原動力になったのが楚姫であり、それを支え、志を引き継いだ李達と許筠は彼女を愛する似た者同士であることが随所に感じられた『ナンソル』の物語。
이렇듯 변복까지 하고서, 나를 만나려 하는 그대는, 대체 어느 세상에서 오셨소.
このように変装までして私に会おうとするあなたは、いったいどの世界からいらっしゃったのですか。
楚姫に自分の正体を明かしてから悪戯っぽくそのように問いかけるジェヨンさんの李達は、余裕を感じるその口調とは裏腹に本当に楚姫のことを神仙が住む世界から降りてきた天女の類だと思っているような節も感じます。この点が似ていないようで似た者同士だった李達と許筠の一番異なる部分なのかもしれません。
筆と墨さえあれば誰でも手に入れられる月というのが素敵だと楚姫が表現した「墨月会」(묵월회) という名の詩の集い。どんな人であっても《知音》は必要なはずだから、学びたいと思うすべての人々に対して文字と詩をその集いで教えるのはどうか、という楚姫の提案を妙案だとすぐに受け入れた李達に対し、お互いに通じ合っているように感じる師匠と姉の姿と彼らが成そうとしていることに不安を感じて心が追いつかない許筠。師匠と姉が場を離れた後、剣呑な目つきで二人が去った方向を睨んで学びたい人々を募る貼紙と思われる紙を真っ二つに破り捨てた許筠。
누이가 가고 싶어 했던, 양인, 천인 가릴 거 없이 세상의 서얼들이 득실대는 그 시회가 싫었고, 당신을 바라볼 때마다 빛나는 누이의 눈이 거슬렸소.
姉さんが行きたがっていた、良人、賎人を問わず世の中の庶子たちがうようよしているその詩会が嫌だったし、貴方を見つめるたびに輝く姉の目が気に障りました。당신을 만나기 전 나와 누이, 둘만의 세상은 더없이 고요하고 완벽했단 말이오.
貴方に出会う前、私と姉さん、二人だけの世界はこの上なく静かで完璧だったのです。
当時を振り返ってかなり直截的な物言いで師匠に恨み言をぶつける許筠。ヒョンソクさんの許筠の姉への慕情には肉親の情を超えた恋愛感情も見え隠れしているように感じたのですが、ギボムさんの許筠が李達に向ける嫉妬の心は小さな男の子が大好きな幼稚園の先生を独り占めできなくて怒っているそれに似たものを感じ。それを受け止めるジェヨンさんの師匠は、公演の中盤までは少し悲しそうな表情なものの、すべてを見透かす心の余裕が感じられたのですが...。その表情がよく見える席に座っていた前楽の公演では筠の目から視線を逸らさないまま揺れ動く瞳に感じる悲しみが深く印象に残りました。
父からの期待に応えれなかったという負い目の思いから人前に出ることを恐れ、屋敷に閉じこもるようになった許筠。そんな許筠を「墨月会」に連れて行き、一緒に李達に詩を学べるように導いた楚姫。「世界の昼」への門が閉ざされた人たちを集め、お互いに詩を詠んで分かち合う。「墨月会」がそれだけに止まっていたなら許筠がここまで師匠を恨み、姉を応援できない気持ちにはならなかったのではないかと思います。
세상의 벼랑 끝 들려오는 노래
폭풍과 어둠 속 날아 오는 나비
世界の断崖の果てが聞こえてくる歌
嵐と暗闇の中 飛んでくる蝶날개는 젖고 밤은 와도
이 긴 밤을 걷는 이가 있다면
난 나를 마주해야 해
羽は濡れて 夜は来ても
この長い夜を歩く人がいれば
私は私に向き合わなければならない
立場の弱い人々を虐げた李達の兄をはじめとする両班の嫡子たち。度重なる兄からの暴力にもじっと耐え、自身が詩を詠むのは自身の中で燃える炎をおさめたいからだと姉弟に語ったこともある李達。理不尽な暴力に対してついに「墨月会」は立ち上がり、報復として夜襲をかけます。姉がこのような血を血で洗うようなことに加担した理由が師匠にあると思っていた許筠。彼女が立ち上がった理由の一端に師匠の不遇もあったには違いないでしょうが、より大きな理由があったことが李達により許筠に伝えられます。
그 무리들이 누군가의 이름을 빼앗았지.
その連中が誰かの名前を奪ったのだ。그 사람의 벗이라 했다.
その人の友だと言っていた。유모의 딸이라 하더구나.
乳母の娘だそうだ。어린 시절부터 함께 자랐다 그리 들었다.
幼いころから一緒に育ったと聞いた。
自身の乳姉妹に文字を教えた楚姫。自分の名前を書き、輝かんばかりの笑顔を見せたという彼女の幼馴染は李達の兄の仲間たちに惨殺されてしまった。乳姉妹の非業の死を正規の方法で訴えかけても相手にもしてもらえなかった楚姫たち。そればかりか、悲しみに暮れて自ら命を絶った楚姫の乳母。
그 사람은 솔숲의 바람처럼 울었다.
その人は風に吹かれる松林のように泣いた。벼랑 끝의 파도처럼 울었다.
断崖の波のように泣いた。
彼女が名前を書けたことが問題だったのか。自分が文を知っていることが問題だったのか。そのように悲しみながら自問した楚姫。「私は私に向き合わなければならない」、「歩みを止めてはいけない」と弟に告げた楚姫。「墨月会」がならず者の嫡子たちにかけた夜襲は単なる復讐ではなく、彼らが詩を詠み、それを分かち合う権利を掛けた戦いだったのだと思います。李達が兄から虐待を受けていたのは、その溢れる才気に対する妬みが原因であったことは想像に難くありません。暴力を受けることには甘んじていても、詩を詠むことは辞めなかった李達。そこからさらに外の世界へと一歩進み、自分たちの手で権利を掴み取ろうとした楚姫。
しかし、その戦いは失敗に終わってしまいます。姉と師匠が傷つくことを恐れた許筠が送った投書により夜襲が「墨月会」によるものであることが李達の兄の仲間たちの知ることになり、夜襲だけではなく、それまでの嫡子たちの悪行の罪もなすりつけられてしまった「墨月会」。ご丁寧に、嫡子たちの一団は立場の弱い詩会の参加者の家族たちの命を盾に取って脅し、存在しない罪の証言まで取り付けることまでしてみます。お互いの《知音》になることを望み、詩を分かち合った仲間たちに裏切られることになった楚姫と李達。そしてそうなることはわかっていたと許筠に伝える李達。「その人」もわかっていただろう、とも。すべてが無駄に終わる結末が見えていながらもなぜそうしたのかを問い詰める許筠に対し、師匠はこのように答えます。
나도... 그 사람도... 그들을 원망하지 않는다.
私も... その人も... 彼らを恨んでいない。지금의 너처럼 말이다.
今のお前のように。다시 돌아간다고 해도... 우린 그리 할 것이다.
また(時が)戻ったとしても... 私たちはそうするだろう。
同じように仲間から裏切られて刑を待つ自分自身の今の境遇を指摘され、当時の李達たちの覚悟を知った許筠の怒りの矛先は彼が隠していたより本質的な部分に迫っていきます。
이렇듯 모든 걸 알고 계신 분이...
그날 어째서 그렇게 말도없이 떠나버리셨습니까?
このように全てを知っている方が...
その日どうしてそのように何も言わずに去ってしまわれたのですか?말해보십시오.
おっしゃってみてください。어째서 누이에게서, 세상에게서 달아나신 겁니까?
どうして姉さんから、世間から逃げ出したのです?
捕らえれた楚姫を密かに釈放するように手配した楚姫の父と兄。許筠は姉と同様に師匠も釈放してもらえるようにと父と兄に頼み込み、その父と兄にも秘密裏に李達が楚姫と一緒に都城の外へ逃げれるよう馬と旅の準備を整えて姉の書付を師匠の元に送ったのでした。外の世界で傷つくことを恐れ、外の世界に憧れる姉のことを不安に思い、姉と二人だけの静かに世界に閉篭もることにあれだけ固執した許筠の一大決心。しかし、李達が約束の場所に現れることはありませんでした。
난 그 사람을 지킬 수 없는 사람이다.
私はその人のことを守ることができない人間だ。내가 그 사람을 망칠까 겁이 났다.
私がその人を滅ぼさないかと怖気付いた。나란 사람은, 이 세상의 것으로는 이 세상을 살 수 가 없다.
私のような人間は、この世のものではこの世を生きる術がない。그런 내가 어찌 그 사람의 손을 잡을 수 있겠느냐?
このような私がどうしてその人の手を取ることができるのだ?
それに対し、
잡으셨어야지요.
取らなければならなかったのです。그 손을 놓지 말았어야지요!
その手を放してはならなかったのです!
と泣き崩れながら答えた許筠。かつて、刀を手に取り夜襲に向かおうとする姉を何とかして止めようとする許筠の手を握り、楚姫はこう言いました。
이렇듯 손만 마주 잡아도 너의 세상이 따뜻해지지 않느냐.
このように手を握るだけもお前の世界は温かくなるじゃないか。이 온기를 다른 이들과 나누는 것, 그게 진짜 세상이다.
この温もりを他の人たちと分かち合うこと、それが本当の世界だ。우리가 더 갈 수 있도록 너도, 이렇게 곁에 서서 내 손을 잡아주지 않겠느냐?
私たちがもっと行けるようにお前も、こうして私の手を握ってくれないか。
その手を振り払い、姉が夢見る「本当の世界」、「五色の雲、青い玉で作った輝く橋」はこの世には存在しないんだと叫んだ許筠。外の世界へ、新しい世界への歩みを決して止めようとしなかった楚姫。その手を取って一緒にその世界に行くことができなかったことは許筠と李達の二人が共有する後悔と痛み。
나도 누군가처럼...
평생 두려워하고, 원망과 한탄만 하였지.
私も誰かのように... 生涯怖くて、恨んで嘆くだけだった。내가 바라는 세상, 그 사람의 세상에는 내가 있어선 안 될 것만 같았다.
私が望む世界、その人の世界には私がいてはいけないように思った。
「その人」を自分の世界への扉を開けてくれた人と表現した李達。その李達のことを、姉が行きたがった外の世界の境界にいた人と表現した許筠7。楚姫が李達の「扉」を開けた瞬間はおそらくその出会いで李達が耐えきれずに笑いをこぼした瞬間。そして彼女の世界をどんどんと広げていった李達が楚姫と共にその境界を広げていくことを諦めたのが約束の場所へ行かないことを決めた時。楚姫を安全な世界に押しとどめようとする許筠と李達の立場が入れ替わったのはこの事件が発端で、楚姫が身近にいる間は内側の世界に閉篭もることを選び、彼女が遠い存在になってしまってから外の世界へ歩み始めた許筠と楚姫との関係を絶ってから内側の世界にとどまった李達はなんとも対照的です。しかし、深い後悔と痛みが伴いながらも李達が楚姫の手を離したのは、許筠という自分では成し遂げられない、楚姫と自身の意志を託せる《知音》がいたからなのでは、という気もしています。
事件の後、婚姻先の人々に疎まれる不幸な結婚をした楚姫。若くして亡くなった彼女はその死の前に自身で書いた詩を燃やしてしまいます。自分の詩を、自分の命が解き放たれて自由に飛び立つことができるようにという願いをこめて。それを見て慌てる弟に向かい、楚姫は悲しそうな笑顔を浮かべてこう告げます。
약조해다오.
約束してください。
나머지 것들도 멀리 보내주겠다고.
残りも遠くへ送ってくれると。우린 한 나무에서 났질 않느냐.
私たちは一本の木から生まれたのではないだろうか。난 여기 멈췄지만 넌 계속 갈 거라고 약조해다오.
私はここで止まるけど、お前は歩み続けると約束してください。더 깊은 뿌리를 내릴 거라고 여기 멈춰선 나처럼,
내 숨을, 내 목숨을 여기 가둬두지 않겠다고... 약조해다오
より深い根を下ろすと、ここで止まった私のように、 私の息、私の命をここに置いていかないと...約束してください。
切なる願いを半身に託したように感じたインジさんの楚姫に、この局面になっても弟の成長を願ってそう言ったように感じたヒョンジさんの楚姫。どちらの願いも許筠だけにではなく、私にも強く訴えかけてきて。力強い弟の約束の言葉を取り付けて、振り返ってみれば自分が愛したものはすべてこの場所にあったと零す楚姫。「伯牙絶弦」の故事にちなんで詠んだ『遣興』(견흥)の詩を再び弟と一緒に詠み、自身の頬も涙で濡らしながら、最後に儚げな微笑みとともに
울지 말거라. 괜찮다.
泣かないで。大丈夫
と告げる楚姫の言葉はどう考えても逆効果としか思えません。
姉との約束を結局自分は果たせなかったと悔やんでいるのではないかと師匠に指摘され、その通りだと応える許筠に先回りして「でもその人はそうは思っていないはずだ」と告げる李達。なぜそんなことがわかるのだと問いかける弟子に対し、登場時のどこか人を食ったような悪戯っぽい笑顔で師匠はこう言い、許筠の目の前から再び姿を消します。
너도 이미 알고 있지 않느냐.
お前ももうわかっているのじゃないか。
우린 아주 오래전부터 서로의 지음이었다.
私たちはかなり昔からお互いの知音だった。
許筠はハングルで書かれた最古の小説、『洪吉童伝』の作者としても名を残していますが『洪吉童伝』の主人公の洪吉童(ホン・ギルトン、홍길동)は母の身分が低い孽子で不正を働く役人や庶民を苦しめる貴族から奪い、奪ったものを貧しい人々に分け与える義賊という設定。「墨月会」、そして姉と師匠をモデルにしたような物語を、文字を読めない庶民を哀れんだ世宗大王が作ったハングルで書いて広めた許筠。いまや『洪吉童伝』は朝鮮半島に生を享けた人なら知らない人がいないくらい有名な物語で、洪吉童は仲間たちとの冒険の末にやがて身分差別のない理想の国をおこすのに成功します。
姿が見えなくなった師匠に代わって許筠の前に現れた楚姫。師匠を探して呼びかける弟に対し、「あの人が随分と前に亡くなったことを忘れたの?」と問いかける楚姫。お墓を探したけど見つからなくて、たくさん泣いたのも忘れてしまったの、と。そして許筠が書いた物語を読んだと。私とあの人と、そしてお前の物語だった。「お前も私と同じくらいあの人が大切だったんだね」と言い、静かに微笑んだ楚姫。
最後にバトンを繋いだのが許筠であったとしても、きっとそれは三人が一緒でなければ、一人だけでは辿り着くことのなかった遠い場所。やっとそれを認めることができた許筠には、処刑される時を目前にしながら晴れやかな笑顔が浮かんでいて。劇中で一番穏やかな笑顔を湛えながら世界の楔から解き放たれた許筠。
소리가... 좋구나
音が...いいな
三人が生きていた時代から四百年のもの時を経た現代に生きる私たち。彼らが暮らしていた時代よりも身分や性別による差別は少なくなった時代に生きていながらも、依然として息苦しさを抱えながらを生きている人々は多いように思います。時代が変われば、また変化に応じて新たな苦しみも喜びも生まれるもの。息苦しさを感じながらも日々を生きる私にとって、すべてが無駄になるかもしれないと思いながらも歩むことを辞めずに少しでも先に世界が進むことを願い、苦しみながらも生きた彼らに共感するのは容易く、そしてそうして精一杯生きた結果、その足跡を世界に残せた彼らは眩しくて。また、そのような志、心をお互いに交わすことができる《知音》に出会えた彼らの物語を舞台を観ることによって自分もその一部になったような感覚になれて。異なる時代、異なる場所に生まれ育った私が彼ら《知音》の物語に惹かれるのは、きっとそれが大きな理由のひとつなんだと思います。千秋楽の舞台挨拶で、「どの作品でもそういうことはあるけど、『ナンソル』は特に観客の皆さんが同じ心になって観ていることを感じて、一緒に作品を作り上げていると感じた」と話していたインジさん。インジさんの言葉や他の観客のみなさんの反応を見るに、私だけの感想ではないのかもしれません。
悲しくも美しい物語を同じような風情の音楽、美術、演出で彩り、素晴らしい俳優さんたちの演技でその世界観に浸らせてくれる『ナンソル』。韓国創作ミュージカルの中でこの作品が指折りのお気に入り作品になったのは言うまでもありません。
- 日本語読みはきょ・らんせつけん、韓国語読みはホ・ナンソロン(허난설헌)。許蘭雪(ホ・ナンソル)、蘭雪(ナンソル)と表記されることも。蘭雪軒は号(別名、ペンネーム)で本名は許楚姫。↩
- きせい、あるいはきーせん、きーさん。芸妓のこと。奴婢の身分の女性がなることが多かった。韓国語の読み方はキセン (기생)↩
- げっし。妾腹の子のこと。中国語では「親不孝な子」というような意味もある。韓国語の読み方はオルジャ (얼자)↩
- 李氏朝鮮時代の身分制度では大きく良民(양민)と賎民(천민)に別れていて、さらに良民は両班(양반)、中人(중인)、常人(상인)に細分化された。良人は常人とほぼ同義で農民や商人などの一般庶民がこの階級に属していた。父親が両班の身分であっても母親が両班の身分ではない者は庶孽(しょげつ、서얼)と呼ばれ、両班ではなく良人の身分に位置付けられた。母親が良民の場合は庶子、賎民の場合は孽子と呼ばれた。↩
- はくが。中国春秋時代の晋の大夫。韓国語の読みはペガ (백아)↩
- しょうしき。中国春秋時代の楚の人。韓国語の読みはチョンジャギ (종자기)↩
- [2019.9.21 追記] ここは私の台本の読み間違いで、境界に立っている人と表現していたのは李達、許筠を描写する言葉でした。許筠は楚姫を外の世界から隔絶する壁にはなり得ず、境界に立っているに過ぎないというのが師匠の評。ただ、このレポを書いた時点ではこのように思ったのでそのままにしています。↩