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【観劇レポ】ミュージカル『ナンソル』(난설, Nanseol) @ KONTENZ GROUND, Seoul《2019.7.27ソワレ》

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 韓国語でミュージカルを観ていると、言葉がわからなくても作品から感じ取れる空気や情緒にどうしようもなく惹かれることがあります。2019年7月最後の週末に初めて観たミュージカル『ナンソル』(난설, Nanseol) はまさにそんな作品でした。初めて訪れたコンテンツ・グラウンド。この劇場から水墨画で描かれたような許蘭雪軒1の世界に誘ってくれた俳優のみなさまは以下の方々でした。

 許楚姫(ホ・チョフィ):チョン・インジさん
 李達(イ・ダル):アン・ジェヨンさん
 許筠(ホ・ギュン):ユ・ヒョンソクさん

作品紹介

 まず最初にplayDBに掲載されているこの作品のあらすじをざっくりと訳したものを紹介します。

「この世界が
 この世界の昼が
 私のものでも私たちのものではないから
 私たちが持つ唯一の黒くて黒い筆で昼を描いた」

光海君在位10年の仁政殿
都城内に凶書を貼って民を扇動し、逆徒たちと逆謀を図ったという罪で捕らえられた許筠は尋問を受ける。 ひどい拷問にも罪を認めない許筠はむしろ自分を陥れた連中に向かって逆賊であると咎め、戒める。 しかし一緒に連れてこられた彼らが拷問の末に嘘の自白をし、許筠を自分たちの頭だと供述する。

処刑される前の晩、拷問により意識が朦朧とした許筠の前に姉の許楚姫と自分に詩を教えた師匠、李逹が訪れる。 許筠は李逹を見るや否や、獣のように泣き叫びながら師匠が長らく自分たちの元を去った理由を尋ねる。 すると、李逹は三人が共に過ごした夜と彼らが大切に思い愛した詩人、許楚姫のことを回想するが…。

 蘭雪軒、または蘭雪は李氏朝鮮時代の韓国の詩人、許楚姫の号2です。儒教思想の強い影響で女性が冷遇された時代に生まれ、女性が詩を書くというだけで批判され続けた彼女。蘭雪の詩作は長らく彼女の故国では正当に評価されず、隣国、特に中国で称賛されたことによって後世に作品が伝わることになったようです。彼女の作品が遺されることに尽力したのが蘭雪の弟の許筠。文人一家に生まれ、自身も韓国で最初のハングルで書かれた最古の小説の作家であった許筠。そんな姉弟の詩の師匠は『三唐詩人』の一人に名前が挙げられ、李白に匹敵する詩人とまで言われながらも庶子であったためにやはり冷遇された蓀谷(ソンゴク)の号を持つ李達。そんな師と姉の境遇に影響を受け、思想家、活動家としても名を残した許筠。ミュージカル『ナンソル』では、27歳の若さで夭折した若き天才詩人蘭雪の詩の世界、人物像を弟の許筠の視点から、師匠の李達と許筠の対立軸と彼女の詩を歌詞に乗せた楽曲から描き出しています。

 ミュージカル『ナンソル』の作曲、音楽監督は、ミュージカル『月と6ペンス』、『狂炎ソナタ』、『リトル・ジャック』などを手がけたダミロ氏で、演出はイ・ギプム氏、脚本はオク・キョンソン氏。コンテンツ・プランニング社製作の本ミュージカルは2019年7月19日に初日を迎えた新作の韓国創作ミュージカルです。

感想

 観劇後しみじみと「これは良いものを観た」とその余韻を反芻したくなる作品。韓国語も漢詩もどちらも覚束ない私にでさえ、蘭雪はなんて豊かな情緒を持ち、美しくも悲哀に満ちた作品を世界に遺したのだろうと強く刻み込んでいく。許筠の視点を中心に語られながらも、間違いなく蘭雪の物語であると感じさせられる本作。構成、音楽、美術、衣装、照明、そして三人の俳優さんの演技。決して派手な作品ではありませんが、そのどの点をとってもその楚々とした美しさが心に残る。ミュージカル『ナンソル』は私にとってそんな作品でした。

(以下、ネタバレが多く含まれるためご注意下さい。)

 拷問によって意識が遠ざかる許筠の前に現れた李逹。あらすじでは何故自分「たち」の元を去ったかを尋ねたとありますが、実際の劇中の台詞は少し違っていて、師匠が「姉」の元を去った理由を問う許筠。これに対して「お前には姉がいるのか?」と質問で答える李逹。怒り心頭で「師匠は姉さんのことを忘れたというのですか?」と師匠に食ってかかる許筠に対し、

그 사람은, 누군가의 누이라 부르기 아까운 사람이지 않은가
その人は、誰かの姉と呼ぶのが惜しい人だと思わないか

と涼しい顔で朗らかに笑って答える李逹。

 この短いやり取りの中で見えてくる彼ら、そして彼らと蘭雪の関係性。少し歪で一見不完全に見えて、でも満ち足りている三人の世界。私がこの物語に惹かれた理由のひとつは間違い無く彼らの関係性にあると思います。

 作中でも一番好きなミュージカルナンバーの「月と雪の降る夜」(달과 눈이 내리는 밤)

그대가 그린 은빛 달 아래
あなたが描いた銀色の月の下
내가 쓴 하얀 눈이 내리고
私が書いた白い雪が降って

그대와 내가 그린 그 곳
あなたと私が描いたその場所
어딘지 모를 세계에서
どこかわからない世界で
너는 구름을 쓸고
あなたは雲を掃いて
너는 달에 취했다
あなたは月に酔った

나는 바람을 읊고
私は風を詠んで
나는 시에 울었다
私は詩に泣いた

 李逹が歌うこのナンバーの歌詞では「あなた」と「私」は度々入れ替わって歌われます。この曲の歌詞のようにお互いの境界線が曖昧に思えてくるくらい通じ合い、同じように世界の美しさや痛みを感じ、まるで魂を分け合った存在のように感じた李逹と許楚姫の師弟。劇中の二人が初めて出会った日のエピソードは作中で好きな場面の一つです。会ったことのない人ではあるけど、私はあの人の詩を知っているからあの人を知っているのですと言い、敬愛する李逹を悪く言う初対面の男に食ってかかる楚姫。実は目の前のその男こそ彼女が愛してやまない詩の作者、蓀谷その人とは知らずに言葉を荒げて怒っている楚姫はとても一生懸命でかわいくて。ついつい彼女をからかってしまった人の悪い李逹の気持ちがわかる気がします。二人が強い絆を結び、同じような感性を共有したのはおそらく二人がどちらもその時代において「持たざる者」であったから。才能が溢れる詩人でありながら、女子である、庶子であるという一点のみで冷遇され、一部の人たちには存在しない者として扱われた蘭雪と蓀谷。李逹が楚姫のことを言及するとき、「彼女」(그녀) とは呼ばず、「あの人」(그 사람) と呼ぶのはそんな理由もあるように思います。

 姉さんは貴方とさえ出会わなければ自分と二人の完璧な世界で生きることができたのに、と師匠に恨み節をぶつける許筠。この言葉からもわかる通り、重度のシスコンを拗らせている許筠。生まれのせいで兄から虐待を受ける師匠の姿に心を痛め、さらにそのために自分自身も傷つきかねない行動を取ろうとする姉のことを不安に思う許筠を見ていると、その気持ちもわかるような気がしてきます。その言葉とは裏腹に、姉にとって詩がどれだけの意味を持つのかを誰よりも理解していた許筠。姉にとって詩は彼女が閉じ込められた狭い世界から飛び立てる唯一の方法。自分の気持ちを押し殺して、姉の詩が広い世界に飛び立てるように彼女に約束する許筠の姿は胸を刺します。許筠の望むように彼ら二人だけの世界に閉じ籠ることはできなかったけど、心から許筠のことを大切に思い、その幸せを願っていた楚姫。

울지마
泣かないで
눈물을 닦아
涙を拭いて

이리와
こっちにおいで
널 안아줄게
抱いてあげる

괜찮아
大丈夫
네 곁에 있어
そばにいる

 楚姫から弟に向けた言葉と思われるこの歌詞3には、その言葉に反して涙が止まることがなく。自身が書いた詩を燃やしながら狭い世界に封じられた身の上を楚姫が歌う「蘭雪」(난설) も涙せずに聞けない大好きなナンバーのひとつ。せめて自分の詩たちだけは煙と灰になって空を舞えるようにという願いが込められているように感じたこの曲。情感たっぷりな楚姫の歌を聞いていると、彼女が自身の中に秘めている「恨」(ハン)の感情を感じずにいられません。


ミュージカル『ナンソル』プレスコールより「蘭雪」、ほか
 

 姉の代わりにその詩を遠くへ連れていくために力を注いだ許筠。許筠が長年李逹を許せずにいたのは、彼が自分の言葉とは裏腹に姉の詩ではなく本人を世界へと羽ばたかせてあげたかったからで、それができるのは師弟関係を超えて縁を結んでいた自分の師匠以外にいないと思っていたからなのだと思います。この世に存在しない人間として扱われている自分にはその期待に応えることはできなかったと言い、許筠に率直に謝罪の言葉を伝える李逹。自分と師匠も、また似た者同士であったことをあらためて理解し、長年の確執がほどけて三人が幸せに詩を吟じていた日々を思い出しながら逝った許筠。その旅立ちが鳥が羽ばたく音で表現されていたことも悲しくも美しくて。

난 모두가 있어서 좋았다.
私はみながいてよかった

그 사람과 너, 그리고 나, 서로가 있어
その人とお前、そして私、お互いがいたから
날 버린 이 세상을 버틸 수 있었다.
私を捨てたこの世界を耐えることができた

 この台詞は劇中の李逹の台詞ですが、きっとこれは三人に共通した真実で。この世を離れた三人の魂が再び相見え、幸せだった時代に戻ったように三人で歌う「廣寒殿白玉褸上樑文」(광한전백옥루상량문) は美しくも哀しい物語の最後に温かな余韻を残して幕を閉じてくれます。三人は各々が違う形で「持たざる者」でありながら、誰よりも豊かなものを同時に持っていたのだと思わせるような。


ミュージカル『ナンソル』プレスコールより「廣寒殿白玉褸上樑文」
 

 姉を想うあまりに師匠に対して強烈な恨みつらみと嫉妬の炎を燃やすヒョンソクさんの許筠も、二人の弟子を落ち着いた温かな視線で見守るジェヨンさんの李達も、二人が愛した感受性豊かで愛に溢れた楚姫を演じるインジさんもみんな本当に本当に素晴らしくて素敵で。短い公演期間のため、この作品を観られる回数が少ないことが惜しくて仕方がないですが、まだまだ理解できていない部分も多い『ナンソル』の世界に再び触れられる日が心から楽しみです。

[2019.8.21 修正]

 インターパークグローバルに掲載されていた英語のあらすじを参考に、作品紹介のあらすじの訳を少し修正しました。

[2019.9.2追記]

 台詞と歌詞の言葉の理解が進んだ8月11日、8月25日の観劇を経た感想のレポートはこちら。

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  1. 日本語読みはきょ・らんせつけん、韓国語読みはホ・ナンソロン(허난설헌)。許蘭雪(ホ・ナンソル)、蘭雪(ナンソル)と表記されることも。

  2. 別名、ペンネーム。

  3. [2019.8.27 追記] このレポートを書いた時点ではそのように思っていたのですが、より詳細な台詞の内容や話の流れを理解した今となっては、この歌詞の対象に筠が含まれていることは間違い無いでしょうが、より広く痛みを抱えているすべての人々に訴えかけている言葉という気がしています。