刻一刻冬が近づいてきている今日この頃、寒がりの私はコートが手放せなくなってきていますがみなさまはいかがお過ごしでしょうか? 私はクリスマスムードが高まるにつれて、ミュージカル『ストーリー・オブ・マイ・ライフ』(The Story of My Life, 以下一部SOMLと略記)を 観たい欲求をどんどん拗らせています。先日ソウルで今季のSOMLが開幕を迎えたのものの、私が観れるのは来月の後半になりそうなので観たい気持ちは募るばかり。
ちなみに韓国では「ヒーリングミュージカル」と銘打ってPRされているSOMLですが、私は「ヒーリングミュージカル」であると同時にかなりの「抉られミュージカル」だと思っています。自分の中の弱い部分にザクザク突き刺さってきて痛いのなんの。泣けるポイントは感動だけではなく、登場人物が抱えている弱さに直面する痛みや不甲斐なく思う気持ちと苛立ち、寄る辺のなさのような気持ちに感情移入しての部分も多いです。主人公と一緒にその痛みを乗り越えるからこそカタルシスが得られるのも事実。前回『ストーリー・オブ・マイ・ライフ』を紹介する記事を書きましたが、あまり物語のエピソードには言及しなかった私。韓ミュ観劇仲間のお友達に「SOMLの泣きポイントってどこ?」と聞かれたのをきっかけに、SOMLの物語がなぜ私の涙を誘うかについて考えてみたので少し書いてみたいと思います。
(記事の性質上、ネタバレしかないのでご注意ください)
People Carry On
トーマスとアルヴィンが友達になるきっかけとなったレミントン先生主催のハロウィンパーティ。このときアルヴィンはその年に亡くなったばかりの母の幽霊の仮装を、トーマスはそんなアルヴィンの母が好きだった『素晴らしき哉、人生!』に登場する天使クラレンスの仮装をします。トムとアルが出会った6歳1の時から、高校生になった15歳になってもバスローブにピンクのスポンジのカーラーを髪につけた母親の幽霊の仮装を続けたアルヴィン。変わり者として高校でいじめのターゲットにされてもその仮装をやめなかったことについて、「いったい何を考えていたんだよ、アル」とトーマスは聞きます。アルヴィンが1年生の時に息を引き取ったアルヴィンの母親。母が着ていたバスローブの一織り一織りに母親の魂が残っているように感じていたと語るアルヴィン。母親の葬式の日の取るに足らない細かいことは覚えているのに、自分の母親の記憶はだんだんと薄れていく。生き続けて、日々を過ごす自分には立ち止まることはできない。記憶が薄れていくことを止めることはできないんだとアルヴィンは悲しそうにトムに語ります。
最高の贈り物と幼き日の約束
そんなアルヴィンが二人が11歳の時のクリスマスにトーマスに贈ったのはマーク・トゥエイン著の『トム・ソーヤーの冒険』の本。「トムの人生を変えるような本を見つけるんだ!」と意気込むアルヴィンの狙いの通り、それをきっかけに作家になるという夢を見つけたトーマス。本はただの文字が書かれた紙ではなくて、物語を読むとその人がそこにいるように感じる。物語は時代を超えて生き続けていく。そんな物語を自分も書きたい。アルヴィンがトーマスに贈る本を見つけ出すまでの過程を描くナンバーは「The Greatest Gift」という名前ですが、 アルヴィンがトーマスに贈った「最高の贈り物」は『トム・ソーヤーの冒険』という本ではなく、時代を超えて残り続けて人々に記憶される物語を紡ぐ人になるきっかけだったと言えるかもしれません。
失われていく記憶にしがみつくために母の幽霊の仮装を続けたアルヴィンにとって、それはきっと得難い力。自分の親友がそんな「物語を紡ぐ人」になったことも、そのきっかけを自分が与えたことも誇らしく、同時に羨ましく思っていたに違いありません。
そう考えると、アルヴィンが父親の追悼文をトーマスに書いてもらうことにこだわった理由にも納得がいきます。アルヴィンはトーマスに自分の父親を時代を超える文章にして欲しかった。トーマスがスランプ中であることに薄々気づいていても、追悼文が父親のためだけに書かれた文章であることには妥協ができなかった。何もかもがうまくいかず自分のことに精一杯になっていて、アルヴィンに対する劣等感を感じていた弱いトーマスにはアルヴィンのその悲痛な思いを受け止めることができなかった。トーマスの目線で語られるSOMLの物語中では、アルヴィンの死の真相を知ることは叶いませんが、もしアルヴィンが自死を選んだのだとしたら、それはトーマスに自分を時代を超える永遠の存在にしてもらいたかったからで、さらにトーマスがスランプを乗り越えて自分との約束を果たしてくれると信じていたからなのかもしれないとも思います。
アルヴィンの死の謎
劇中のトーマスと同様に、彼らの物語を観ている私もアルヴィンの死の理由については思いを巡らせずにはいられません。トムとアルのクリスマスの恒例イベントだったクリスマス映画『素晴らしき哉、人生!』の鑑賞会。映画の内容のネタバレになってしまいますが、二人が大好きなこの映画の主人公であるジョージ・ベイリーは滲み出る才気を感じさせる男。小さな田舎町で息苦しさを感じながらも一生懸命に周囲のために自分を犠牲にして、理不尽と戦いながら生きてきた人間です。あるクリスマスイブの日、度重なる不運にとうとう嫌気がさして橋から川に飛び込んで投身自殺をしようとしたジョージの元に、翼のない二級天使であるクラレンスが老人の姿で現れ、ジョージが川に飛び込む前に自身が川に飛び込みます。クラレンスを助ける形でジョージは結果的に自殺を免れます。
クリスマスイブの日、橋の上から凍った川へ転落して命を散らしたアルヴィン。映画のように天使クラレンスが助けに来てくれることを願っていたのかもしれない。映画を思い出して橋の上に登ってみたものの、死ぬつもりはなかったのに誤って足を滑らしたのかもしれない。 ジョージのように、人生に絶望して投身自殺したのかもしれない。可能性を考え出すときりがないですが、劇中でアルヴィンがトーマスに諭すようにその理由を当事者でない私たちは知ることはできません。その理由がなんであれ、アルヴィン・ケルビーという一人の人間の人となりを知った私にとって、彼が若くして死ななくてはならなかったことが悲しい。 私でさえそう感じるのだから、彼の親友であり、アルヴィンの死の理由に自分が大きくかかわっているのではという思いが重く圧し掛かっているトーマスの苦しみはいかほどか。想像をすればするほどとても苦しく感じるのです。
物語に登場するアルヴィンは何者か?
追悼文の原稿に苦戦するトーマスの元へ訪れるアルヴィンは何者なのか。このアルヴィンがアルヴィン本人の幽霊と捉えるか、トーマスの想像の中のアルヴィンだと捉えるかによって感じ方が変わってくるのがSOMLの物語だと思います。
こう書いておきながら私の中では上記の問いかけに対して答えは出ていません。演じる俳優さんの組み合わせによっても、公演によってもどちら寄りに感じるかは変わってきます。ただどちらの場合であっても感じるのは、トーマスにとってのアルヴィンの存在の大きさとその包み込むような大きな愛です。
私が感じるトーマスが抱えている苦しみは大きくは二つです。自分が書いた小説のインスピレーションになっていたアルヴィンが真の天才であって、自分には本当は才能なんてないのではないのかという劣等感。自分が育てた劣等感が原因で自ら距離を置いてしまったアルヴィンとの間の絆に、修復できない傷を自分がつけたことによってアルヴィンが自死を選んだのではないかという疑い。この二つがあるために、物語の冒頭のトーマスは親友の死を単純に悲しむことすらできない状態になっています。
苦悩するトーマスに対して、あれこれとちょっかいをかけながら、物事がシンプルで楽しかった時代から振り返って疎遠だった時間を取り戻すように、少しずつ頑なに閉じられたトーマスの心を解きほぐしていくアルヴィン。自分のことであっても、トーマスの目を通して描かれた自分の物語は自分のものではなくトーマスのものだと諭すアルヴィン。これを語っているのがアルヴィン本人の幽霊であっても、トーマスの頭の中のアルヴィンだとしても、その懐の大きさと包み込むような愛には心が打ち震えます。いずれにしても、トーマスをまるごと受け止めて赦してしまえるくらいアルヴィンはトーマスにとって揺るぎのない絶対の存在だった。逆にそれはそれだけトーマスがアルヴィンを愛していたことの証左でもあり。SOMLの物語を観て私が泣いてしまう最大の理由は、ラストでその二人の大きな愛に自分も包まれているような気分になるからかもしれません。
『ストーリー・オブ・マイ・ライフ』は誰の物語なのか?
「これは自分の話ではない」と劇中で繰り返し、アルヴィンの物語を書かなければと焦燥感を募らせるトーマス。自分の物語もトーマスのものだというアルヴィン。
This is you.
This is me.
This is love.
This is life.
This is it.
『ストーリー・オブ・マイ・ライフ』はアルヴィンの物語であり、トーマスの物語でもあり、二人の物語でもあり、 彼らを通して自分の人生を振り返る私たちの物語でもあるのだと思います。
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韓国版の「Write What You Know」ではトーマスは"일곱 살 때부터 어랜 친구죠"(7歳からの幼馴なじみです)と歌いますが、ここでは英語版の「Mrs. Remington」の歌詞と「Normal」と「People Carry On」の間のトーマスの台詞 “What was cute at six was just weird at fithteen.” に従って6歳としています。↩