再演されると知ってからずっと気になっていた木下順二さんの戯曲、『子午線の祀り』。『平家物語』を題材にしたこの作品を初めて足を運んだKAAT神奈川芸術劇場で観てきました。とても面白く、久しぶりに観劇後に感想を文章として書き残したくなる欲求がムクムクと湧き出てきた本作。出演者のみなさまは下記の方々でした。(複数役をされていた方については一役のみを記載しています。)
新中納言知盛:野村萬斎さん
九郎判官義経:成河さん
影見の内侍:若村麻由美さん
阿波民部重能:村田雄浩さん
大臣殿宗盛:河原崎國太郎さん
梶原平三景時:吉見一豊さん
武蔵坊弁慶:星智也さん
能登守教経:松浦海之介さん
平大納言時忠:月崎晴夫さん
二位の尼:金子あいさん
平三左衛門重国:時田光洋さん
悪七兵衛景清:岩崎正寛さん
伊勢三郎義盛:浦野真介さん
越中次郎兵衛盛嗣:神保良介さん
船所五郎正利:武田桂さん
武蔵守知章:遠山悠介さん
佐藤四郎兵衛忠信:森永友基さん
(以下、ネタバレありなのでご注意ください)
感想
いきなりの中二病発言で申し訳ないです。この作品の何がいいってまず『子午線の祀り』というタイトルが良くないですか?1979年の初演時からそうなのかはわかりませんが、野村萬斎さん演出による今回の公演に付けられた「Requiem on the Great Meridian」という英訳タイトルもとても好み。この戯曲が源平の戦いを題材としたものであることを知る前からその響きだけで何か心惹かれるものがありました。「子午線」や「祀り」という言葉に天界や何か厳かで神秘的なものを連想したからかもしれません。劇中でも説明されている通り、子午線は地球の北極点と南極点をぐるりと一周する経線のこと。
地球の中心から延びる一本の直線が、
地表の一点に立って空を見上げるあなたの足の裏から頭へ突き抜けて
どこまでもどこまでも延びて行き、
無限のかなたで天球を貫く一点、天の頂き、天頂。
まるでプラネタリウムのナレーションのような「読み手」の口上から始まる『子午線の祀り』。無数の星が瞬く夜空を模した舞台のセットが暗転して、真っ暗な闇にしばし放り込まれてから寿永三年1の四国の場面へと転換する初っ端の演出の仕掛けからして、時空を超えて自分自身も「影」となって千年ほどの時を一瞬にして遡るアトラクションを体験しているように感じます。
そしてそこから展開される対照的な二人の武将、平知盛と源義経を中心に展開される諸行無常、盛者必衰の物語。
重責と矜持を背負って耐え忍びながら滅びの運命をそこはかとなく感じ取り自問自答を繰り返して惑う知盛。萬斎さんが演じる知盛は「平家の公達とはかくありなん」と思わせる品の良さとオーラを感じる貴公子でありながらも、頼りにならない親族や余計な頭痛の種ばかりを増やす麾下に悩まされる苦労人のイメージが拭えません。そのキャラクター造形はとても人間臭く、だかからこそ彼が死の間際に辿り着いた諦観と揺るぎなさは心に残ります。
見るべき程の事は見つ。
今は自害せん。
戦いの最中のその静かな最期の不惑の姿は羨ましくも物哀しく。
内省的で「静」のイメージの知盛に対し、外向的な「動」のイメージなのが成河さんが演じる義経。髪型や衣装、その闘争心に溢れる気位の高さから一瞬ふと某国民的格闘漫画の戦闘民族超人王子を連想してしまったことを正直に告白しておきます。(←)若さ、生命力と躍動感に満ちる義経は常に迸る炎を纏っているようで、彼が光り輝けば輝くほど、知盛に深い陰影を与えているように感じる二人の対比はとても色鮮やか。義経の最期を知っているからか、己の強すぎる光が後々の自身に影を落としているよう。それが端的に表れているのが星さんが演じる弁慶と義経の対話。
兄頼朝のためにと動くことも後白河院のために動くこともならないと諭す弁慶。じゃあ自分はどうすればいいのだと寄る辺ない子供のように言葉を震わせる義経。その迷いを振り切って戦功をあげて平家を滅ぼすことだけを考えるように自分を奮い立たせる彼の姿に迷いは見えませんが、却ってそれが彼を憐れな存在のように感じさせます。
中心となる二人以外のエピソードで特に印象に残ったのは、それぞれの登場人物の散り様。いつの間にかひっそりと亡き者になっていた影見の内侍。海の下にも都はあると幼い帝に告げて入水したニ位の尼。大立ち回りの末、両脇に敵の首を抱えて彼らを道連れに海を飛び込むというとても豪傑らしい最期を迎えた能登守教経。どう死ぬかはどう生きるかに匹敵する大きな人生の命題である、とはどこで聞いた誰の言葉だったでしょうか。知盛の熱烈な信望者であったのにもかかわらず、最後はその主君を裏切ることになった村田さん演じる民部重能の姿やその滑稽さが哀れを誘う宗盛と清宗の親子の姿を見ていると、そんな言葉が脳裏をよぎりました。
時間の流れや大いなる自然を前にすると人間という存在はあまりにも矮小で非力。日本に暮らす人々は毎年のように台風の暴風雨に見舞われ、震度3程度の地震には驚きもしないくらい自然の脅威に慣れ親しんでいますが、世界中がパンデミックの影響を受ける今だからこそその無情さを強く感じる部分もあると思います。
日陰のものにも趨勢を誇って栄華を極めたものにもやがては等しく訪れる死。悠久の存在に思える天球を瞬く星々であってもいつかは滅びの時を迎え、今、夜空に見えている星も遥か彼方ではもう存在していないかもしれない。それでも星は静かに輝いている。たとえそれに人々が気付かなくても。そしてそうやって繰り返されてきた幾千幾万の生の営みがある。そんな取り留めのないことを観劇後考えました。
舞台が進行するにつれてシェイクスピアの史劇、あるいは悲劇を観ているような気分になった私。戯曲を書いた木下さんが東大英文学科でシェイクスピアを専攻されていたという経歴を見るに、そのような気分になったのはきっと偶然ではないのでしょう。長い独白で思い悩む知盛は悩めるデンマーク王子ハムレットを彷彿とさせますし、イルカの群れに不吉さを感じて怯える宗盛の姿はどこかマクベスの要素を感じます。シェイクスピアに限らず英国の演劇を観ると度々感じる、もっと私にヨーロッパの歴史や宗教観の教養があればもっと作品を楽しめるのにという気持ち。私自身は決して『平家物語』に詳しいわけでも能楽や歌舞伎などの日本の伝統芸能に精通しているわけでもありませんが、日本という国で生まれ育ってきたが故におのずと蓄積されてきた知識や概念に対する感覚があることは確か。そうやって知り得たことが自分がこの面白い作品を観る上でアドバンテージを与えてくれている、と普段はあまり感じない妙な優越感めいたものを抱きながら観劇できたのもとても新鮮な体験でした。でもやっぱりまだ足りない、この作品の面白さを十二分に味わうためにはもっと色々と勉強しなくては、と思わせる中毒性。そこはやはり私の中ではシェイクスピア作品を観た後の感覚にとても近いのです。
戯曲の言葉の運びと俳優さんの演技だけではなく、衣装、音楽、照明や舞台装置による演出もとても印象的だった本作。物語と時間軸と空間軸に変化が訪れる際に効果的に使われていた二つに分かれる三日月型の可動式の台座。あまりにも自然に、演出がこの台座ありきで展開しているように感じていたので、公演プログラムの中で萬斎さんが元々は別の作品用に作った装置を再利用したのだと語っているのを読んでとても驚いてしまいました。シンプルで洗練されたセットで使われる大道具もかなりミニマナイズされた中での演出は私の好みにドストライク。とにかくとても美しくてかっこよかったです。語彙力…。
『子午線の祀り』(2021年上演) トレーラー
父の野村万作さんが初演で九郎判官義経役を務め、自身は知盛役を演じながら演出も手掛ける萬斎さんは『子午線の祀り』が「運命として出会った作品」と言い、伝統を引き継ぐ使命を感じていると語っていらっしゃいますが、この作品は日本の様々な演劇の在り方についてそれぞれの分野の第一人者達が考えに考え抜いて辿り着いた一つの形であり、実を結んだ結果のように思います。表現が難しいのですが、『子午線の祀り』はそういう熱い想いを抱えた人たちが信念を掛けて作り上げた舞台だと感じるのです。決して内容は易しくはないし、消化するのが難しい作品なのにとても心惹かれて「また観たい!」と思うのはそこが一番大きな要素なのかもしれません。
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